布団を跳ね飛ばす。勢いあまって窓枠に肘をぶつける。最高に痛い目覚めだ。 さらに何か恐ろしいものが来る夢にうなされていたような気がする。 多分丹沢に襲われる夢を見ていたに違いない。 時計を見る。午前六時二分。早すぎる。二度寝に入ろうとしたが、肘の痛み に部屋の寒さと寝覚めの悪さで寝る気がしない。椅子にかけておいた制服を着 て台所へ向かう。適当に朝食を摂り、机においたままの鞄を開けた。昨日坂本 講師の弾いた旋律を控えた五線紙を取り出す。せっかくの早起きだ。少しは趣 味に費やしても罰なんて当たらない。 早朝のさわやかなコーヒーに、音楽。我ながら早起きはいい。優雅なひとと きだ。 ぴんぽーん そう、優雅なひととき ぴんぽーん。 頭より先に身体が動いていた。コーヒーを吹き出して走る。顔から血が引い ているのが自分でもわかる。唇だって真っ青だ。 この時間の来訪者なんて考えるまでもなく丹沢だ。ボスだ。泣く子も黙る丹 沢風花だ。 せめてもの死刑執行猶予を求め、リビングから急発進。 絶妙なコーナリングで廊下の角を回り込み、反射神経を駆使して扉を開ける。 それは誰がどう見ても来客を迎えるには適度な待ち時間であり、間に合ったは ずであり、理不尽な暴力にさらされるはずがない。 が。 「ストライプか!」 俺の目に飛び込んできたもの。それは見慣れているはずの制靴の裏側ではな く、何かとてつもなく危険な 「幸一、避けるか死んで!」 そんなもん、この世に悪がある限り、慣性の法則がある限り、俺に丹沢を除 ける術はないわけであり。 靴裏が見事に俺の脳天をかっ飛ばした。 いわゆる無重力状態。心も身体も精神も全てが重力という鎖を断ち切る。い や、魂だけは一足早く天に昇ったかもしれない。 ともかく、身体が宙を舞っていた。走馬灯がゆっくりと回転し、一周する寸 前後頭部を床にぶつけ、いつもどおり絶妙のタイミングで死の淵から舞い戻っ てきた。廊下の天井と、強打した頭が床に冷やされる感覚が気持ちいい。ああ、 なんて素敵な目覚め。 「……ああ、ストライプ」 頭を踏んづけられる。お互いに自業自得の癖に。 「何もかも見なかったことにしなさい、幸一」 暴力と脅しで弱者を攻め立てる。血も涙もないやつだ。 「ああ、何も見えなかった。ましてや三着千四百円のやつだなんてことは知ら ないぞ」 「なんで知ってんのよ、そんなこと」 踵落としが肋骨に響く。いつのまにやらこの家は惨劇の館に変貌していたら しい。 「……いつのまに世界残酷事件史に」 「なんか言った?」 「い、いや。今日も爽やかだな。こんな早いのも久しぶりだ。さっさと学校に 行くぞ」 強引な話題転換で命をつなぎとめ、家を出る。 快晴の空が広がっていた。 「ったく丹沢。朝から人に飛蹴りを見舞うか普通」 ようやく形ばかりの講義に出ることにした。 「幸一がいつもより早く扉を開けたからでしょ。跳んでしまっていたもの、気 付いても止められないのは仕方ないよ」 「仕方ないで人の走馬灯を一周させないでください」 「あんなくらいで回るほうがどうかしているのよ、普通」 反省も謝罪もない。どうやら丹沢の普通に期待した俺がばかだったらしい。 全てを諦めてのんびり朝の風景を楽しむことにする。丹沢だって上機嫌で黙っ ていると非常にかわいらしいもんである。そのかわいらしさだけを夢想し、朝 の五分をなかったことにする。 連れだって歩く通学路が明るくて気持ちいい。川沿いの通学路に咲く小さな 花に露が降りる。犬を散布させる人が川を眺め、ジョギング男を自転車制服女 が猛スピードで抜かす。それはほんの少し、早く出ただけの近所なのにいつも 見ることのない日常の風景だった。そんな中に丹沢がいて、俺がいて。 こんな春の朝の早起きもちょっとだけいい、そう思った。鼻歌交じりに川の 横を歩き、電車に乗り、昨日の吉岡のへたれっぷりに丹沢の友達づきあいの話 を聞く。つまらない日常と、見慣れた風景の一部に過ぎない毎日の繰り返しだ。 それでも朝一番に人と触れ合うということはとても貴重なことだと感じる。一 緒に電車のドアをまたぎ、隣同士で座り、話は今日の昼食へと移る。やがて声 が聞こえなくなり。隣を見ると丹沢が俺の肩にもたれかかって眠っていた。 光る川の筋を過ぎ、遠くの山に生える樹の姿が見え始め、車内アナウンスが 行政第二区画に到着と告げ 「ほら、着いたぞ。起きろ」 「……ん、もうお昼ごはんか。お腹すいたもんね」 「いや、まだ登校中だからな」 ベタベタなネタを繰り出す丹沢を引っ張り電車から降りた。 ここから徒歩十分。まだまだ咲かない桜並木を抜け、階段を上りきると三年 七組の教室に到着だ。時計を見ると八時前。昨日とは別の意味で通学路でも、 廊下でも、誰とも会わない。 「誰にも会わなかったね」 「だな」 「そうすると一番乗りね」 「だな」 「でも私が一番だから」 「だな、ってうわっ」 首に何かが巻きつき、視界が暗転、のはずが色とりどりのお花畑。 ただ、生前の記憶に残るのは床の冷たさ。この最高な気分、昨日も感じたよ うな気がする。 「ってめえ。朝から二度も床最高などと思わせあがって。そんなに床が好きな ら寝かすぞこら」 「あら、いつだって歓迎よ。明日から添い寝してあげようか」 絶対絞め殺されそうなので遠慮しておく。が、言い返そうとした先に丹沢は 見えない。 「あ、おはよう」 その代わりに、丹沢の元気な声が響いた。 「おはよう橘、丹沢。朝から二人で夫婦でどつき漫才か。幸せ一杯だな」 「やだなあ、朝から下僕処理で苦労のしっぱなしよ」 ……お、教室に人がいたのか。床に倒された身体を整え、教室を見渡す。 朝の光に伸びた影が二つ。その影を辿り、 「え、」 心臓がストライキを宣言しかけた。それは朝から見るにはあまりにも過激な 映像。 学校一の超人、千島桔梗。そして 学校一の奇人、新島亜紀。 この二人はなんだかんだ言って普通の高校生をやっている丹沢とは違う。丹 沢と二人では漬け物石とエアーズロックだ。同じ石として比べることに問題が ある。 千島桔梗。入学以来何をやってもトップを譲ることのない超高校生級の体力 と能力と根性の塊。この進学校で一教科もトップを譲ったことはないどころか、 全国模試ですら同じ状態だ。この学校において「一番」という言葉は千島の次 につけた生徒が口にする言葉だ。身体能力もずば抜けている。体育の長距離な ど軽トラックを追い越す大排気量スポーツカーだ。出走レースが違うだろう、 とつっこみたくなる。体育の授業なんて全員対千島でようやく均衡が取れる。 それだけではない。付属植物園と農場の管理を任されるほどの植物好きで、二 年生の時の研究成果で大きな賞を取り、テレビと新聞がダースで数えられるほ どに取材に訪れた。おかげで高校自体に観光客が舞い込むほどである。費用対 効果の高すぎる生徒だ。いつ寝ているんだと聞きたくなる。身長182cm、体重そ の他不詳。 で、教壇に立つと胸の影がくっきりと浮かぶのだ。俺の目線なんて釘付けで ある。 それメロンでも入れているのですか、などと聞くことができれば神様になれ るだろうが即星にもなれる。背の高い男子生徒ですら上回る長身と整った顔立 ち、肩を隠すほどの長髪と浮き出る巨乳は高嶺の花ですらない。 まさに理想、千島さんなのだが致命的な欠点がある。 自他に対して非常に厳しいのだ。 千島の自己管理は徹底している。誰が見ていなくとも完全に立ち振る舞い、 どの瞬間も力を抜くことはない。一切の快楽を拒否し、その鉄の意志を貫徹さ せる。近寄りがたすぎる。 完璧ではあるが故に関わり合いたくない生徒が千島であるならば、新島亜紀 は誰も関わり合いたくない生徒だ。 入学式から連続欠席十日間。以来、遅刻はしないが一年の三分の一を欠席す る。俺を含む通常の生徒ならば曲がりなりにも試験勉強し、当てられれば適当 に答えるが新島は違う。授業中は教科書すら一切開けない。試験中もペンすら 持たない。徹底して無口と無視を貫き、ただ椅子に座り黒板と教師の顔を見つ めるだけ。新島が口を開いた日は黒猫に前を横切られ、下駄の鼻緒が切れ、カ ラスに付け回され、ムラサキカガミを思い出すほど不吉だといわれている。顔 立ちは整っているので、黙っていれば葉の綺麗な観葉植物のようなものなのだ が、たった一度だけ、大きな事件を引き起こした。 教室での失火である。 噂によると教室で突然紙を燃やし、床を焦がした程度であるらしい。が、事 件なんてものは量ではなくて質である。実質上停学制度のないこの学校で珍し く停学という処分を受けた。 さて、目の前にその二人がいるわけだが。ま、新島に挨拶は考えられない。 「お、おはよう千島さん。早いな」 千島を呼ぶときは誰もが「さん」をつける。 「おはよう橘。私はいつもこの時間だ。植物園の管理があるからな。では一時 間目には椅子に座っていろ」 颯爽と髪を翻し、教室を後にする千島。 「あ、ああ。じゃあな」 植物園へ行って作業、だろうか。格好良さに微妙なかわいらしさが見え隠れ。 「幸一、ちょっと。あんた何エロい顔して見送ってんの」 席に荷物を置いた丹沢の言葉が刺々しく突き刺さる。 「そりゃエロくもなるだろう。俺だって男子高校生だし丹沢のエロさに影響さ れるし相手は千島さんだし」 間違っても千島さんの巨乳に見とれていましたなんて言えない。そんなこと を口にすると二時間目までにはモツ煮込みにされてしまう。 「まあ千島さんだし、そりゃ目つきも変わるでしょうね。で、これからもその エロさで老い先短い青春駆け抜けていくんだね、幸一」 「ああ、エロいのは宝だからな。少子化解決のためにも腰だけは鍛えておくぞ 丹沢のために」 「あ、そう。それならせいぜい鍛えておいてよね。あ、おはよう、高橋さん」 「おはよう丹沢さん。もしかして朝から橘くんのセクハラに耐えてんの」 「耐えてんのは俺だ、こんちくしょう」 「あはは、独り言はトイレで言ってよね?」 非常に綱渡りの会話を終え、徐々に登校する生徒の中に丹沢が埋もれていった。 |
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