誕生詩 -Prelude-

第2話

 図書館で時間をつぶし、チャイムを聞いてから何食わぬ顔で颯爽と階段を上
り、堂々と廊下を歩き、前を向きながら視野を両目百六度に保つ。このさりげ
なさ、そこはかとない緊張感、最前線で哨戒任務に当たる兵士の如し。
 危険回避三原則を暗唱する。
 感づかれてはいないか。
 感づかれる行動をしていないか。
 退路は確保しているか。
 索敵開始。
 時刻は休み時間終了三分前。生徒の動きが授業に向けて活発化し、騒がしく
なる時間だ。奇襲には最適である。
 目標、三年七組。大丈夫、俺なら出来る。
 いっせーの、
 ごき。
 ごき? 
「あら、来てたんだ。おはよう幸一」
 やたら幸せそうな声色に返す。おはよう教室。
「じゃ、さよなら」
 はい、さよなら。
 そして俺にとってだけ長い滞空時間が無慈悲に過ぎ去り、床に叩きつけられ
る。朝から空中浮揚を楽しむことの出来る豪華アトラクション、学校もサバイ
バルになってきたもんだ。
「って、殺す気か丹沢」
 雑魚ではボスに傷すらつけられないのはお約束であるが、それでも精一杯の
文句をつけておく。
「大丈夫。幸一だけは死なせないから」
「って人を蹴飛ばしておいて早速好感度アップの台詞ですか!」
「こないだの演劇の台詞よ。ちなみに続きは『代わりに永劫の責め苦を受けて
もらうわ』だけど」
「いいです。もう泣いたり笑ったりしません」
 圧倒的な尊大さをさらけ出した上に傷に塩を塗りこむような高らかな笑いが
響き渡る。肩までの髪の毛がきれいに揺れ、腰に両手を据えプチトマトほども
ないくせに胸を張る。下あご右側の小さなほくろがやたら印象的であるが間違っ
てはいけない。それは無駄に満面の笑みをたたえる死神だ。ステータス画面が
あれば人外と表示されるところである。ただし今は人の皮をかぶっているので
丹沢風花という名前がついている。というわけでそれは人の形をした犯罪だ。
「ま、心配しなくても私は寛大よ。下等な生き物を苛めて喜ぶことはないし、
役に立つなら家畜を飼うスペースだってあるんだから」
 暴虐の限りをぶちまける。まさに悪夢である。
「なあ、それも演劇の台詞なんだよ、な、丹沢」
「え、アドリブよ」
 ものすごい才能の持ち主である。
「あのな、今まで二回だぞ、遅刻したの。なんでそこまで」
「あ、そう。明日から首輪登校するんだ。へえ、ペット未満ね」
 スカートのポケットから怪しげなものをちらつかせる。銀色の円を描く謎の
物体。
 人、それを手錠という。
「……もういいです。毎朝激しく定時登校いたします」
 手錠か屈服か。似たような選択肢に見えるがここは人間としてのプライドを
捨てるわけにはいかない。ここは屈服を選択する。何ゆえ朝からこんな低レベ
ルな争いをしなければいけないのか。そもそもなぜ人は争わねばいけないのか、
人類は兄弟ではないのか。友愛にあふれているのではないのか。目の前の理不
尽からせめてもの現実逃避を試みる。
 たとえば、だ。
 丹沢の代わりに毎朝飛びっきりの美人で血の繋がらない姉が優しく俺を起こ
し、これまたなぜか都合よく血のつながらない元気すぎる妹が世話を焼いてく
れて、ああ、自然と笑顔がこぼれ
「そんな都合のいい裏設定は隠されてないからね、幸一」
「いや、もしかしたらあるかもしれないだろ。『もーしょーがないなー』なん
て言いながら世話してくれるお姉ちゃんとか」
「……ちょっと、妄想はいいからよだれ吹きなさい。ちなみに私はリアル姉やっ
てるけど、そんな都合のいい姉なんていないから」
「おはよ、橘。とりあえず今日も友情確かめに連れションしようぜ」
 妄想を中断するだみ声が現れた。
「ってめえ人の妄想邪魔すんじゃねえ家畜。俺の二次元返せ」
 振り返った先には同級生でアホ仲間の吉岡修身がいた。修身などといういか
つい名前がついているが間違ってはいけない。
「二次元ってなんだよ、橘。いや、その前に家畜って」
「いや、お前は家畜だ。動物病院行ってろ」
「私から見たらどっちも動物なんだけど」
 一緒にするな丹沢。
「わかった吉岡。友達なら今すぐツラと金と貸せ」
「あ、私には金だけでいいから」
「……やっぱり下僕でいいです」
 吉岡がたそがれた。
「まあ家畜に甘んじろ、吉岡」
「いや、やっぱり実験動物ね」
「……ちょ、そこの二人、せめてペットくらいまで格上げしてくれってその注
射器なんですか」
「実験動物なんだから死に際で私を喜ばせるしかないみたいよ、吉岡」
「丹沢。いくらなんでもそれは虐待な」
 さりげなく恐ろしい言葉を吐く丹沢はともかく、俺と吉岡はきつめの冗談も
言い合える仲だ。
「まあ気悪くするな。昼飯買ってきてやるよ」
「お、ありがとう。それじゃ昼まで寝るか」
 俺も大概落ちこぼれだが、吉岡の領域になると授業のサボり具合そのものが
エクストリームスポーツだ。一歩間違えば落第である。
「ほら仲いいのは分かったらさっさと座りなさい。そろそろ二時間目が両手を
広げて待ってくれてる時間よ」
 そんなときの丹沢は妙にかわいらしい。かわいらしいついでに丹沢が両手を
広げる想像をする。両手を広げるものの何かが足りない気がする。
 が、いまいち迫力に欠ける。
 どうしてだ。うん、多分それはふくらみが足りないからに違いない。
「だって丹沢って洗濯板だもんなあ、吉岡」
「というか大海原のフジツボって感じだよね、橘」
「な、なによ人のことじっと見て。リボンでも歪んでるの」
 丹沢が不可解な顔をする。
「あれだね橘。火山になり損ねたカルデラってやつ。天然記念物ものだぜ」
「ああ、そのうち成長するさ。気にするな丹沢。今は胴回りだけがでかくなる
時期だ」
 勝者の余裕を浮かべて右肩を叩いてやる。目の前にはかつてないほどの笑み
をたたえた丹沢、そして
「えっと、この世で言いたいことは全部言い終わったのね」
「な」
「幸一。あんたのイケナイ本と年齢制限つきゲームを五十音順に整理したとき
のこと、ばらすわよ」
 その瞬間、教室に控えめなざわめきが流れた。俺を見るかわいそうな視線が
どうしようもなく痛々しい。
「ま、待て。俺がイケナイのではなくて法律がいけないんだ、みんな。俺は悪
くない」
「……橘、今の絶対に丹沢に勝負あったよね」
「次変なこと言ったらあんたは斧でバラすわよ、吉岡」
「ひっ、わかりました」
 哀れ、吉岡。
「……とりあえずトイレ行くか、一緒に」
「ああ、やっぱ男は連れションだね。じゃ、トイレで友情の確認するか、橘」
 鞄を席に置き、吉岡と連れ立った。情けないこの上ない友情確認をし、一日
が始まる。

 ……
 …………
 ………………

「同人誌売ってたって。そりゃ去勢されたも同然ね」
 放課後、開口一番男を否定するのは坂本講師である。冗談じゃない。未練た
らたらのまま去勢などされたら死んでも死にきれぬ。
「ふん、去勢なぞで勢力を衰えさせる俺だと」
「じゃあ切ってみる?橘」
「……遠慮します。けど、それはともかく同人を否定するのはさすがにいただ
けないですけど、先生」
 激しく勢いながらもそれだけは言い返した。
「はいはいわかっています。ま、今言っているのは同人の是非じゃないけどね、
橘」
 さて、ここは音楽室、時間は放課後である。うわさと言うものは尾ひれをつ
けながら加速度的に発散していくもので、ここ、校舎の隅に行き届いたときに
は「教室で一人同人誌即売会をやっていた哀れな現実逃避男」という触れ込み
になっていた。キーボードを目の前に憮然とそちらを見返し、朝の屈辱を思い
返した。
 丹沢風花。
 この学校に入学して二年と少し。入学の頃からずっと近くにいる人間だ。
 出会いは入学式で隣にいたからとりあえず話しかけてみた。で、そのまま同
じ教室に入り、出席番号がすぐ後で、なぜか一緒に帰ると降りる駅まで一緒だっ
た。狙い済ましたかのようなお約束の展開だ。これぞフラグが来たのかと本気
で思った。
 今思えば自分から死亡フラグに突っ込んでいったわけだ。
 だが、悔やむべきはその死亡フラグをより強固にし、足掻いても動けぬ既成
事実としてしまった俺の言葉だ。
 ああ、言ったさ。
 せっかくだし、これからは駅で待ち合わせて学校に行こうか、と。
 何がせっかくなのだと突っ込みたくなるが、せっかくならフラグを叩き割っ
ておけといいたいところだが、当時の俺にそんな能力はなかった。二人の通学
も悪くはない、そう思って交わした約束だ。ほんの気まぐれだった。
 もう一度、そこからやり直したかったのかもしれない。中学三年生、一人に
なってしまった日からもう一度、人を求めたかったのかもしれない。
 駅での待ち合わせ。七時四十二分の各停、先頭車両の二番目の扉。約束は二
週間ほど守られ、ある日突然約束の待ち合わせ場所がなぜか俺の家前に変化し
た。この時点で異変に気づくべきだった。
 丹沢が人の皮を脱ぎ捨てて修羅と化すのは入学三ヶ月後である。
 それは高校の夏休み最初の日。場所は俺の家。丹沢が一発で恋に落ちそうな
ほどの笑顔をたたえ、机の上を指差した。
「幸一。あれ、なあに」
 その瞬間の脊髄の凍る感覚、思い出すだけで全身の鳥肌が立つ。
 そう、机の上には絶対見つからないはずのイケナイ本コレクションがジャン
ル順、五十音順で並べられていた。
 それが丹沢の本性を見せた瞬間だった。どんな懇願も嘆願も鼻の先で吹き飛
ばし、血も涙もない拷問が始まり、隠していたいろんなものを搾り取り、情け
も容赦もなくコレクションが廃品回収に渡される。
「はい、三十円になったわよ。幸一」
 未だにその三十円を捨てきれずにいる俺がいた。未練たらたらである。
 それ以来、丹沢はかぶっていた猫をうち捨て、ライオンも尻込みする凶暴さ
で俺を監視するようになった。
「ふーん、橘にそんなつらい過去があったとはね。こりゃ、職員室でのいい土
産話ができたわ」
「って人の思考を読まないでくれますか、って人をネタキャラ化しないでくれ
ますか」
 どうやら俺の周りの女性には血も涙もないやつが頻発だ。
「突っ込むなら一つにしなさいよ、橘。男でしょ」
「……ネタキャラで結構です」
 キーボードに向き直り、悲しみの全てを鍵盤にぶつける。
「そうそう。丹沢との馴れ初めはわかったけど、橘のよくつるんでいるヘタレ
との馴れ初めはどうなのよ」

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