朝。すがすがしい春の日差し。四月も終わり近い、暖かい日和。 季節はまさに春である。 足元にぬかるみが残る北の春だ。朝露が透明に光り、まだまだ硬い桜のつぼ みを滑り落ちて足元の土を叩く。空を彩る雲は薄絹を裂いたような五線譜の姿 をしている。 それは大声を上げて走り出したいほどの開放感。 誰も通らない静けさに満ちた桜並木の通学路を一人、広い道を通る。 と、格好をつけたが一言で言うと「遅刻」というやつである。そんな瑣末な ことにこだわるのも馬鹿らしいので空を見る。二週間もすれば桜だって開花す るだろう。 「そう、いい感じだったんだけどな、メロディーラインは」 桜のつぼみに夜更かしの言い訳をつぶやいてみた。頬に感じる風が空に舞い 、ほんの少しだけ桜の枝を揺さぶった。 ちなみにこの坂の桜はすべて樹齢五十年超。とある企業から寄贈されたもの で、千本くらいはあるらしい。それほど固まって桜ばかりが植わっているおか げで学校前の坂道は花の名所百選だかなんだかに指定されている。思いつきや ノリで枝を折ったりすれば血の小便が出るまでしごかれて何を言われてもイエッ サーとしか言えない身体にされそうだ。 だが、曰くつき懲罰つきは桜だけではない。坂の下から続く桜並木を抜けた 先にある古びた石柱も要注意建造物である。どこからどう見ても古びた石柱な のであるが曰く、この地方に初めて立てられた建造物であり、重要文化財指定 を受けているとのことだ。ちなみにこの石柱、実はここ十数年前に壊れたもの を補修したらしく、よく見ればひび割れをつなぎ合わせた痕跡がある。ちなみ にこの石柱も企業の寄贈物であるので下手にビラなんか貼ってしまえば六百メー トル先から狙撃されるに違いない。 「慈善行為も楽ではないよな、お互い」 立派過ぎる校舎、植物園、テニスコート。これが全部慈善行為なら俺がここ にいるのだって慈善行為みたいなもんだ。そこまで思って腹立ちまぎれに足元 の石を蹴飛ばす。 おー飛んだ飛んだ。 石の軌跡の先には青空があり、その下には校舎があり、そしてヘルメットを かぶった人。 こつん。 「さて、何もなかったな。登校するか」 何も見なかったと自分言い聞かせ、清々しい朝の風に身を ごつん。 と、同時に猛烈なエンジン音が、死の宣告が、赤い巨体のバイクが 「橘、おはよう」 その笑顔だけで死ねそうな顔が鼻の先にあった。 「あ、おはようございます、坂本先生。今日はお互い遅刻ですねははは」 そう、都合の悪い出来事はなかったことにするのが一番だ。例えば蹴り飛ば した石がヘルメットに直撃など 「安全確認よし。人もいないみたいだし、バイクを発進させようか」 前輪が俺を向く。 「ははは、前方を確認、しましょう、ね?」 「大丈夫、人はいないから……一応聞いておくけど、覚悟はできてる?」 エンジンの空ぶかしが響く。 「……一応言っておくと悪気はなかったんですよ?」 「……覚悟は?」 「あー今日も先生はお綺麗ですね。うわ、立派なバイク。さすが俺の尊敬する 先生ですよ。美容の秘訣はやっぱり早寝早起きっすか」 「ふっ、美容の秘訣は弱いものいじめよ、橘。そろそろ減らず口は打ち止めか しら?」 「ごめんなさい。ついかっとなって石を蹴り飛ばしたの、俺です」 ごつん。 「ったくね。しかも遅刻するし。あんた、ダメ人間コンテストで優勝できるん じゃない」 ちなみに高校通学二年と一ヶ月で遅刻はこれで二度目だ。そこまで言われる ほどではない。 「先生は遅刻じゃないんですか」 「用事よ」 とりあえず朝っぱらから生徒相手にストレスを発散させるという非人間的行 為に満足できたのか、坂本講師がようやくヘルメットを座席下に仕舞い込み歩 き出す。それに倣って隣を歩く。薄桃色の風がほのかな温かさをつれて後を追 う。 坂本玲子。身長約普通程度。音楽の講師で採用三年目であり、三年契約であ る。今年までの頑張りで正式採用が決まるはずなのだが、やる気は全く見られ ない。俺がたった二回の遅刻でダメ人間コンテストに優勝できるなら坂本講師 は手抜き授業フェアで世界王座を戴けそうだ。 もっとも坂本講師が手を抜いたところで、困る人間はこの学校に存在しない 。あんぜだかは分からないが、この学校は伝統と歴史の名門校であるくせに、 音楽にだけは一切力を割いていないのだ。例えば、玄関から校長室前に飾られ たトロフィーにメダルに賞状。それらは歴史と伝統を誇る数々の運動部、文芸、 演劇部の賜物であるが、吹奏部や軽音部の獲得物ではない。そもそも音楽系の 部活動などこの学校には存在しないのだ。 学校が学校なら生徒も生徒である。音楽の授業、これすなわち自習という空 気が流れており、教師生徒共々やる気がないのである。それは暗黙の了解であ り、不文律であり、常識だ。 まったく難儀である。 というわけで最初から教える気力のない音楽講師、というのは学校にとって も願ったり叶ったりであり、俺にとっても音楽室の占有を許される現在の環境 は願ったり叶ったりである。 「じゃ、また放課後。来るんでしょ」 放課後。毎日のごとく音楽室でキーボードを叩くのは俺くらいしかいない。 「はい、今日もよろしくお願いします」 軽く手を振って別れた。 時間は九時十八分。一時間目の真っ最中だ。こんな時間に教室に入るという ことは死を意味する。教室へ入るタイミングは休み時間に限る。 登場人物 橘 幸一(たちばな こういち) 丹沢 風花(たんざわ ふうか) 新島 亜紀(にいじま あき) 坂本 玲子(さかもと れいこ) 吉岡 修身(よしおか おさみ) 新井(あらい) 松岡(まつおか) 千島 桔梗(ちしま ききょう) |
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