春の屋上。お気に入りの場所、お気に入りの大気、贅沢な時間。
大きく深呼吸してみる。乾いた空気がほのかに冷たい。ほんの少しだけ期待
をこめて光あふれる屋上を眺める……いた。歩み寄る。
足元には大の字で寝転ぶ人。その人が授業を休むとき、必ずここにいる。給
水塔の影に顔だけを突っ込んで、身体は日向に投げ出して。
左手には丁寧にたたまれた四つ折りの五線紙。右手には銀色の細いボールペ
ン。モンブラン社製でいつもは制服の左ポケットに入っている。とてもとても
高価な物。そしてその人にとって何よりも大切なもの。絆の全て。一週間と三
日前に制服のボタンが取れたままになっていて、今度の日曜日には向島駅前ま
で髪の毛をカットしに行くはず。もうずっと見てきたことだもの。何だって分
かる。
一度だって目を合わせたことも、一度だって口をきいたこともないけれど。
まぶたを閉じて二度前の春を思い出す。
希望なんて何もなかった。
何もかもを失ってこの学校に来た。姉も、姉の大事な人も、私の大切だった
ものも。中学生の頃毎日練習し続けたドラムセットに近づくだけで首の絞まる
ような、心臓のせり上がるような、そんな気持ちになった。怖くて痛くて、音
ですら聞きたくなかった。
ほんとうは学校になんて行きたくなかった。でもたった一人、同じアパート
に住む千島さんが毎日私を学校に連れ出すから仕方なく行っていただけ。自分
さえ大変なくせに私を心底心配する千島さんがとても鬱陶しかった。入学して
一ヶ月。学校なんて辞めてやろうって思っていた。
それは桜の綺麗な、北の大地の遅い春の日のこと。お昼の後の授業が退屈を
極め、教室から先生以外の動きが消えてきた。
突然クラスの半分の生徒が立ち上がった。風景の中に一気に騒がしさが増す
。残り半分は驚いて立ち上がることすらできなかったみたいだ。誰もがスピー
カーに顔を向け、何事かを話し合っている。そう、授業中、突然スピーカーか
ら音楽があふれ出したのだ。一瞬のパニックは机の振動するほどの笑い声と歓
声に変わり、学校中が盛り上がる。
いつだって冷静で静かな千島さんですら立ち上がり、口を開きっぱなしにな
る。
騒ぎは十分そこそこで静まる。それからこんな話が伝わってきた。
体育館に立てこもって自作の音楽を流した奴がいる。それは同級生で同じク
ラスの橘幸一らしい。
橘幸一。私が失った世界で輝く人。その人のことを知りたい、そう思った。
居場所のない教室でその人の机の場所を記憶する。
次の日。学校に行くことがほんの少しだけ楽しみだった。だからずっと私に
話しかけてくる千島さんに、その日初めて返事した。
月のようにいい笑顔を返してくれた。
期待をこめて教室のドアを開けて昨日探したはずの場所に目を向ける。
人の渦ができていた。私と千島さんだけがその外にいて。ほんの少しだけ、
そう、ほんの少しだけ寂しかった。だってその人の姿を見ることができたもの。
住み場所は違うけれど、同じ教室にいるってわかったもの。だから寂しさより
もうれしさがこみあげた。自分の席について、前だけを向く。
この場所でいい。遠くに見える星を眺められるのだから。
それからいろんなことがあった。
千島さんはあれからものすごく強くなった。やっぱり孤独だったけれど。
橘くんのことも少しずつ分かってきた。橘くんはいつも元気でバカみたいな
ことをやっているけれど、とても苦しい思いをして学校に来ているって知った。
ずっと見ていると橘くんの友達もわかる。そして橘くんのそばにはいつも同級
生の丹沢さんがいた。丹沢さん。とても明るくて太陽のような人。
その丹沢さんが橘くんを幸一って呼ぶたびに気分が沈んだ。橘くんが丹沢さ
んの頭に手を置くたびに気分が悪くなった。
授業中。橘くんは寝ていて、その寝顔を遠くから私が見て、その私を丹沢さ
んが見る。丹沢さんなんていなくなれって思った。
あのときの姉の気持ちが痛いほど分かった。私ってなんていやらしいんだろ
う。なんて嫉妬深いのだろう。
そうやってずっと、後ろ姿を見つめ続けた。
幽霊みたいな私には誰も声をかけることなんてない。誰も私の姿を見ようと
もしなければ私に何か行動がとれるわけでもない。私と目を合わせようとする
人は千島さんと、そして丹沢さんだけだった。
丹沢さんに負けたくなかった。私が勝負できるものってなんだろう。ふと振
り返ると何の取り柄もない自分がいた。音楽を捨て、明るさを捨て、言葉も音
も捨て、感動も素敵って生きてきた私だもの。それでも丹沢さんには負けたく
なかった。
だからもう一度ドラムを叩こうと思った。必死になってドラムを触ろうとし
た。触るだけで一年かかった。
二年生の冬。私は丹沢さんに負けたくないのではなく、橘くんを好きだって
気付いた。初めて誰かを好きになった。だからどうしていいのか分からなかっ
た。
十二月の終わりまで近くなった夜。思い切ってすぐ上の千島さんを訪ねた。
何でも知っている千島さんならこの気持ちをどうかしてくれるって思った。
多分橘くんを好きなんだって相談した。
面白いくらいに驚いた顔をしていた。驚いた顔が呆然とした顔に変わり、そ
してとってもいい笑顔で言ってくれた。おめでとう、って。そして私に一枚の
紙を差し出す。
橘くんの率いるバンドのチケットだった。
行ってくるといい。そう言ってくれた。ほんとうは千島さんが行きたかった
のだってことはずっと後になって気付いた。
クリスマスの日。
昔よりはずっと寂れてしまったけれど、それでもこの日は何か特別、だと思
う。一人で出かけ、隅に陣取る。ほんとうは好きな人と二人で来るものなのか
もしれないけれど、兵器だった。
好きな人は舞台の上にいる。それだけでとても幸せだった。幸せで涙が出た。
その幸せを譲ってくれた千島さんの気持ちに気づいて、泣いた。
そして三年目の春。足元に寝る橘くん。
ずっと見てきた。悲しいこともあったし、嬉しいこともあった。千島さんの
気持ちを押しのけもした。ここにいるって認めて欲しくていろいろ頑張った。
それなのに、大切な場所で一言ですら話しかけられない。
橘くんには丹沢さんが似合っている。それに千島さんの目だって橘くんを見
ていて、そのときはとてもやさしい。私の入り込む余地なんてない。
それでも私には何だって分かる。
目の前で寝ている橘くんの何もかも。
だからもう一度、もう一度だけやってみよう。これであきらめよう。これで
最後。後悔のないように。もう泣くことのないように。
笑顔で話しかけて、それで十分。笑ってさよならって言おう。
橘くんの手から五線紙を取って広げる。
書きかけの曲だった。
この続きを作る。そして私はどこまでも行く。自分の強さと。
目を閉じて上を向き、屋上の柵に両手を添える。よし、このメロディーでい
く。強く、清清しく、やさしい旋律を思い描き口笛を吹く。
この口笛が終われば声をかけて、そして