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西の空が赤い。兵舎の影が長く、長く伸び、鼻先につめたい空気を感じる。 血も涙も意味も無い一日だったような気がするが、妙に清々しい。私も所詮 は軍隊に所属する人間だから、だろうか。 結局。 延々と基礎体訓練を恥ずかしい語尾と共にこなし続けたわけだ。最後まで脱 落者が出なかったことに奇跡を感じる。 と。汗だくになって座り込む隊員の近くにトラックが近づいた。 「大尉、ただいま買出しより戻りました。ペットにしてください」 井坂曹長だ。律儀にも敬礼しながら下僕宣言を忘れない。側に止められた四 トントラックにはこれから戦争でも始めようかという勢いで物資が乗っかって いる。 その殆どが酒であるのはまだ分かるのだが、よく見れば真ん中あたりで何か が動いているものがある。 羊だ。 「……井坂。その羊はどうした」 当然の質問を平然とこなす。 「は、兵舎の前に落ちていたため拾得いたしました。ペットにしてください」 それは放牧していたというのだ、井坂曹長。 「羊をペットにする趣味はない。能見と坂上、羊を捌け。証拠は適当に残して おけ……それから井上は兵站に走って金払って来い。井坂、私のカードを井上 に渡せ」 大尉のクレジットカードは打ち出の小槌なのだろうか。 トラックの陰に二人と一頭が移動し、タイヤの隙間から血が流れてくる。一 瞬で首を落とされたのだろう。突っ立っているのもアホらしいので私も解体を 手伝うことにした。とりあえずバケツとホースを運ぶ。皮をはぎ、血を洗い流 し、内臓を丁寧に掃除し、肉を食べやすい大きさに切り分ける。 そんなこんなで日が沈み、心地よい風が流れる。 「野上さん、解体は終わりましたか」 井坂曹長だ。私に対しては怪しい語尾をつけないのが微妙に残念である。 「はい、終わりましたけど」 「ではホースをこちらに向けてください。水浴びでもしたいので」 なるほど。いい考えだ。 栓を全開にして水を撒いた。みんなが集まり、戦闘服のままだけど一日の汗 を流しながら大声で話し合う。組織されて二日目だというのに、もう前線を何 度も経験したかのような結束だ。 「なんだ、楽しそうじゃないか。私も入らせてもらうぞ」 大尉だ。声を止めて息を詰まらせ、あるものは咳き込む。 「申し訳ございません、大尉。お前ら、水浴びは大尉の後」 「構わん。続けていろ。私だって一緒に汗くらい流させろ。わかったら返事」 「はい、ペットにしてください」 そして大尉も戦闘服のままホースの前に陣取って服の間に水を注ぐ。中隊全 員が鼻血を吹かないでいいように目を逸らした。ちなみに上末曹長は未だに完 全武装障害走をやっている。もう一セット残っているはずだ。目の前をそれで もものすごい勢いで走りぬけようとした上末曹長の襟首に大尉が手を伸ばす。 「よし、上末。もういい。戻っていいぞ」 「はい、あと三セット」 「もういい。よくやった。お前らも謎の語尾はもう十分だ。それより今から演 習第二部いくぞ。こら見山、勝手に乾杯の練習をするな。子供か」 大尉がコップに手を付けかけた見山一曹に石を投げる。気持ちいいほどの音 がして一人の男が昏倒する。とりあえず近くの能見二曹が肩を支え、うわべだ け直立させるが、見山一曹はどう見ても白目だ。 「さて、お前ら。一日基礎体しまくって疲れただろう。現時刻より演習第二部 を敢行する。敵は私の後ろにそびえる山。全員突撃し、井坂が一日走り回って 購入していた酒その他と落ちていた羊を全滅させろ。絶対負けられない戦いだ。 私に遅れをとるな。いいか、明日は全員休暇をやる。裸になって警務官を殴り 倒しても咎めん。無断で野上と一緒に闇に消えるのは応相談だ。私と闇に消え ても構わんが命は保証しないぞ。基地司令官をつるし上げたければ私に言え」 無駄に格好いいのだが、アホらしいといえばアホらしい。 「では乾杯行くぞ。今日一日、ご苦労。明後日から本腰入れて訓練だ。ご主人 様」 それが突撃開始の合図だった。 勝敗と個人の戦闘結果については敢えて何も語るまい。演習第二部でも大尉 に勝てる隊員はいなかったとだけ記しておこう。 第二兵舎裏手花壇。 めったに人も来なければどこからも見つかりにくい場所だ。当然のごとく、 私が橘准尉と落ち合う場所はそこになった。 勤務時間が終わると急いで仕事場を抜け出し、二時間ほど花壇か食堂で過ご して、それからまた仕事をする。それが私の日課だ。 今日は少し早く来てしまった。なんたって橘さんに会うためにこれほど走っ てきているのだろう。なんだか悔しい。少し上気してしまったことを走ってき たせいにして大きくため息をつく。 そもそも、橘さんに会うのはそれほど贅沢な理由ではない。強化プログラム とは何か、それを元に戻す方法はあるのか、それを調べるためだけの打ち合わ せだ。色気も何もない。 「待たせたか、葵」 顔を上げる。少しはまともな格好の橘さんが立っていた。 「いえ、さきほど来たばかりですから」 なんだそれ。べたべたな少女漫画みたいな会話じゃないか。 こんなことを続けて三週間になる。 いろいろあった。酔った勢いで、なんてことはなかったけれど気がつけば橘 さんは私を名前で、私は橘准尉ではなく「橘さん」なんて呼ぶようになってい た。もちろん、呼び方が変わっただけで何も変化はない。敢えて言うなら基地 の知り合いが興味八割義務二割みたいな噂話に橘さんと私のことを含むように なったくらいだ。それから 「ここまでに分かったことを俺なりにまとめてみた」 強化プログラムについて結構分かった。私が軍と北東技工から引っ張り出し てきたデータ。そして橘さんが関係者から聞き取った内容を纏め上げた書類を 手渡される。 「……こんな簡単に調査できていいんでしょうか。セキュリティが低すぎまし たが」 「気にすんな葵。お前が優秀すぎんだよ」 どうだか。私は職業柄軍のセキュリティを熟知しているだけだ。最初から手 の内の見える相手と戦ったに過ぎない。 それはともかく、今まで分かっていることをまとめる。 プログラムは戦前から研究されていて、研究元は北東技工。これはわかって いた。 被験者はほぼ全て北東技工の運営する福祉施設の出身。これも予想の範疇。 今更非人道的だとか野暮な突っ込みは入れない。だが、例外的に施設外の被験 者も一名だけいる。その人は今でも生存しているらしい。 三百名を越える被験者が存在し、その六割弱が五歳までに死亡。二割が二十 歳までに死亡、一割が戦死、残り一割未満が死刑判決を受けて既に執行されて いる。つまり、幼少の頃に死ななければ軍人になって死ぬか、退役した後に罪 を犯して殺されるか、あまり幸福な死に方はできないらしい。 が、例外はある。 現在まともに生き残っている人間だ。データによると強化プログラムを受け て尚生きているのは二十一名。調査中隊が私を含めて二十名だから、単純に考 えるともう一人生き残っている人がいる、ということになる。 「残った一人はともかく、今生き残っている中隊のやつらを調べれば何かわか るんじゃないか」 そう、確かに今中隊で生き残っている人たちは皆、偶然にも「改造」が人間 の身体に適合した稀有な存在だ。精神的な崩壊を未然に防ぐ鍵があるかもしれ ない。でも。 「残る一人って誰なんでしょうね」 私はそれが気になる。強化プログラム被験者に共通することは職業選択だ。 誰もが十五歳になったと同時に軍人としての道を歩んでいるのだ。もちろん被 験者が一名の例外を除いて孤児であり、軍人にでもならなければ食べていけな かったというのは事実だろう。でも、私ですらも突き動かされるかのように十 五歳を過ぎると同時に軍人になっていた。宿命のようなものだと思っていた。 なのにたった一名、軍人という生き方を拒否した被験者がいた。それこそが 私たちの希望であるような気がする。 「うーん。葵のお兄さんの魁峰なんてどうだ。あいつは受検していないのか」 それは私も考えた。 「でも魁峰は特に際立った能力を持っているわけではないですし、多分被験者 ではありません」 確たる証拠はない。だが、魁峰は私より更に普通の人だ。 「ま、そう簡単に結論が出るわけないよな。少し話は変わるけどさ、葵。この データって続きがあるわけじゃないんだよな」 橘さんが被験者の現在の状況を示した書類を指差す。 「はい。これで全部です」 それは私の通信兵としての能力が保証する。 「ということは強化プログラムの被験者はここ十数年現れていない、というこ とになるな」 橘さんが一瞬、鋭い目つきを向ける。 「そうですよね。強化プログラムはここ十数年行われていなくて、多分私くら いが最後の被験者です……どうかしましたか、橘さん」 「……なんで、あいつが被験者になったんだろうな」 橘さんの言葉は私を向いていなかった。その言葉の「あいつ」が誰なのかは 嫌ほどわかる。 どんな理屈も何もない。橘さんは大尉のことを大好きなのだ。 悔しいことに。 ずっと思っていたことを言う。 「私、少し考えたことがあるんです」 切り出すことにした。 「ん、すまん。どうした。えらく真剣だな」 「橘さんがどうやって大尉の執務室に入ったか、です」 言うなら今だと思う。 「ああ、その話か」 「はい。あの認証システムは数秒で遺伝情報を読み込むものです。データの改 ざんはできません。すると、橘さんが執務室に入れた理由は二つ。一つは大尉 か私と遺伝情報が同じだった。もう一つはあらかじめ橘さんの情報が登録され ていた。荒唐無稽な前者はともかく、後者が答でしょうね」 言いながら自分の言葉が冷えていることに唇をかむ。 「ま、妥当な読みだよな。続けてくれ」 「開錠情報を登録できるのは私か大尉だけです。大尉が橘さんの情報を登録し たんでしょう。だって私、わかります。高校からの知り合いの橘さんがいるっ てわかったときの大尉の気持ち。大尉は橘さんに会いたくて」 大尉は橘さんのことを好きだから、だからあらかじめ橘さんの情報を登録し た。 「半分正解で、半分妄想だな……正解を知りたいか、野上」 静かな兵舎裏にそんな言葉が響く。 「私は橘さんを脅しているわけではありません。ただ、大尉のお気持ちを察し てほしいと、そう思います」 正解にそれほどの興味はない。でも 「まず、実はあの遺伝情報解析システム、そんなに精度は高くないんだ。それ から葵は俺のことも、千島さんのことも勘違いしている」 そんなはずはない。大尉が橘さんのことを語るときはほんとうに純粋で、無 邪気ですらある。 「なら教えてください、執務室に入れた理由を」 知りたかった。知ってはいけないだろうけれど。 「前者だよ」 「茶化さないでください」 「すまん。言ってみただけだ。それじゃ、また明日な」 さも当然であるかのように背中を向けて去っていく橘さんに思わず声をかけ かけて、それから唇をかんだ。 |
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