秋、果ての岬 -Alone-

第五話

 快晴の空。乾いた大気に絹雲が光る。北の果ての最後の夏の風が少し冷たい。
今朝、山に初冠雪が観測されたと聞かされた。
 季節はもう秋だ。セミも入道雲も海水浴も、何もかもがない北の果ての岬に
訪れる最後の優しさの、秋だ。食欲も芸術も文化も何もないけれど、ほんとう
に孤独な秋の気配を全身に感じる。
 時間は午前十時三十分。場所は滑走路。ばれないように肩を回す。いくら私
が軍隊生活に慣れていようとも、直立不動で三十分立っているのが苦痛でない
わけがない。
 さて、私は一体何をしているのか。
 ことは今朝の起床にまで遡る。
 起床時刻は午前六時半のはずが、部屋の準優先連絡サインに叩き起こされた。
 飛び起きた。準優先連絡なんて敵襲か大規模事故くらいしかありえない。一
気に通信を開いた。それで
 礼服着用の上、滑走路で待機せよ。
 コケた。
 とりあえず命に関わることでもなし、いつもどおり朝食を摂り、いつもどお
り身支度を済ませ、引越しの片づけを少しだけしてから滑走路へと向かったの
が午前九時半。そこで聞かされる。
 これからあなたの上官である大尉が赴任してくるので儀礼の後、部屋まで案
内せよ。
 アホらしい。
 そもそも、だ。そんな面倒なことは前日までに知らせておけ、と言いたい。
それに、空軍所属でもたかだか大尉で航空機を使っての赴任なんてどうかして
いる。いや、待て。
 中隊長程度の赴任で仰々しい儀礼なんてない。ならば、意味するところはた
だ一つ。大尉の赴任に合わせて中央の偉いさんが視察に来るのだ。思わずあく
びでもしたくなるアホらしさである
 が。
 周囲を見る。
 ありえない。
 いや、司令官補佐とか、整備隊長とか、航空団長とか、管制室長とか、その
辺は実際どうでもいい。そんな階級、頼まれなくたって普通に基地の中で見か
けるし、普段から駆け引きに警戒色に擬態を駆使して戦う一番身近な敵である。
 でも、最初から戦う以前の階級だってあるわけで、例えば基地司令官とか、
師団長とか北方方面隊長。このあたりが直立不動で立っているのには眩暈すら
覚える。
 上空に聞き慣れないエンジン音が響いた。見上げる。
 真っ白い巨大な機体だった。空軍募集のパンフレットの最初に必ず掲載され
る空軍の象徴、特別輸送機だ。
「……きれい」
 馬鹿みたいな独り言をつぶやいていた。空に携わる人間でなくたってその美
しさには感動せざるを得ないと思う。白煙を上げて着陸する様をただ、言葉を
失って眺めていた。
 儀仗が展開した。その中にひときわ背の高い白い服の橘准尉を見つける。金
管楽器の前に立ち、国旗を高らかに掲げる姿は遠目に見ればものすごく絵にな
る。
 悔しいことに。
 扉が開いた。瞬間で儀仗と警務官の敬礼が決まる。私も一秒遅れず敬礼。
 それを受けて祝砲が鳴らされる。
 一、二、三、四、五。
 五回、か。すると視察に来たのは将軍クラス、ということになる。息すら殺
してタラップに視線を向ける。よくテレビなんかで見る国家元首の到着なんか
に似ている風景に現実味を感じることができない。私如きでは誰かですらわか
らない人が降り立ち、最大級の儀礼を受けている。
「……で、新任の中隊長は」
 もう一度タラップに目をやった。
「……あ」
 言葉にならなかった。
 上級士官の儀礼服に身を包み、タラップを降りていた。勲章のたぐいなど一
切装着されていない。晴天の空に反射するのは腰に差した金柄の短刀だけ。
 寒気すら感じた。
 特別輸送機もそうだけれど、その短刀は軍人に畏怖すら抱かせる。工芸的に
も、実用性でも最高といわれる礼装だ。特別な武勲があった場合国家元首より
直接授与される。軍人最高の栄誉だとされるが、本物を見たのは初めてだ。頭
には青のベレー帽。実戦の部隊長の証だ。金属製の帽章は鳥が羽ばたいている
姿を象った通常空軍女性士官のものではない。六角形が三つ合わさった感じで
ある。空挺部隊の金剛石を象った帽章に似ているが、三つも合わさっているの
は初めて見た。どこの所属だったのかもわからない。
 顔を覗く。
 目元の引き締まった、強い力を秘めた顔つきと高すぎる身長が印象的で、ス
カートから見えるしなやかそうな白い足が綺麗だった。
 綺麗な人だった。
「空軍中央司令室所属、千島。本日より所属を北方方面第一師団と改め、大尉
の位に恥じぬよう職務に専念いたします」
 師団長と方面隊長が答礼。最後に中央司令官が答礼。寿命が五年は縮まる組
み合わせだった。
「千島大尉、着任にあたりその志を」
 佐官以上に求められる着任の挨拶が大尉に言い渡される。何もかもが異例だ
が、もうどうだっていい。
「我が命と名を部下のために、我が知と力を部隊のために、我が誇りと正義を
国のために尽くします」
 いいよどみのない声が響き、少し遅れて拍手が聞こえた。
 私が数多く聞いた着任の挨拶の中で、それは誰よりも輝いていた。

 後悔先に立たず。
 そんな言葉を今強く、強くかみしめている。
 そう、いろいろあったけれど冷静に考えれば単なる上司のお迎えだ。これま
で何度だってやったことがある。鞄を持って案内しながら執務室に連れて行け
ばいい。別に緊張する必要なんてどこにもないと心底思う。
 自分に強く言い聞かせる。
 常に冷静たれ。
 それでも大尉に手渡された鞄を持った瞬間、人生で一番かちこちに凍った。
 はっきり言ってしまおう。
 その帽子の下に覗いた顔に、そのしなやかな指に、新しい士官制服に、その
人の全てに支配されていた。なりふり構わず言ってしまえば女が女に一目惚れ、
だ。
 廊下を歩く感覚ですら自分のものでないような気がする。緊張しすぎて転び
やしないか、つい突っ走ってやいないか、部屋の前を通り過ぎてはいないか。
最前線に立つよりも心拍数が高まっている。今血圧を測れば一発で措置入院だ
ろう。
「名を伺ってよいか」
 その人の第一声は低いけれど、女性らしい柔らかさに満ちた声だった。
 ずっと昔、どこかで聞いたことのある世界のすべて。
 私がこれまで決して感じなかったもの。
 私が一番感じたかったもの。
「はい。本日より調査中隊の総務兼通信を務める空軍二曹、野上葵と申します」
「うん、楽しく過ごせるといいな、野上」
 そっと肩に手を置かれる。
「あ、はい」
 そう答えながら自然と気持ちを落ち着ける。
おっかなびっくりになんてなる必要はない。そう、さっきの儀礼があまりにも
格好良かったから少し夢見心地になっているだけで。
 こんなとき、なんていうんだろう。
 ずっとずっと憧れていました。
 アホか。
 そんなの初恋の中学生だっていまどき言わない。
 相変わらず強い視線に廊下に向けているのに、その肩に置かれた手はただ、
私の心を解き放ってくれる。その手の暖かさとしなやかさだけで一気に心の中
が子供へと戻り、甘えてみたくなった。
「……どうした、野上」
「はい、よろしくお願いします。頑張ります」
 小さな子供に戻ったかのように、そう繰り返していた。
「……とりあえず部屋に案内してもらえるか」
 素敵な笑顔が私を捉えていた。大尉と初めて顔を合わせた瞬間だった。
 そう、次の瞬間まで私は全てを忘れていた。いや、気づかない振りをしてい
た。
 部屋の飾りつけに。
 後悔先に立たず、である。
 部屋を開け
 なかった。
「どうした」
「あ、た、た、大尉。しばらくそちらでお待ちをなんでもないですほんとうで
すっ」
「嘘つけ。めちゃくちゃに怪しいぞ」
 だって。
 ついさっきまで中央の軟弱エリート士官でも赴任してくると思っていたのだ。
よもや金柄の短刀を下げた最強の実働部隊長が来るなんて思っていなかった。
今更ながらに履歴の秘匿事項と幹部職員録を恨みまくる。こんなの絶対反則だ。
「で、ですがほら、大尉。もうすぐお昼ですし、それからでも」
「……変な奴だな。まあ、確かにあと二十三分ほどで昼休みだが」
 時計も確かめないのに正確に時間を言い当てる。そんな完璧さが今はただた
だ恐ろしい。
「ですよね。あの、ここの食堂は北方師団一って言われているんです。それで
早く行かないとこの基地、勤務している人が多いので混んでしまって、それで」
 とにかく口を空転させ、一向によくなるはずのない現状を引き伸ばす。何ら
かの奇跡が起こるのならこれから一年間スクール水着で勤務してやろう。
「なるほど。先にそちらに向かうのも悪くはないな」
 よしきた。突撃だ。
「そうですそうです。今日は水曜日ですからたしかAセットが」
 一気に畳み掛ける。
「だが、とりあえず荷物だけは置こう。それに礼服で食事というのも変だろう。
せっかくの気遣いだが少しだけ待っていてくれ。部屋に入るぞ」
 私に笑顔を向けてくれた。それは天国と地獄も合わさった笑顔だった。その
笑顔だけで卒倒しそうだった。無残にも遠ざかっていく大尉の礼服に十字を切
り、これまでの罪を全て懺悔する。
「神様……どうか」
 生まれてきたことすら後悔しそうになる。
 そして扉が開
「よう、千島さん」
 かなかった。
「……この部屋に前任者などいたか、野上」
 相変わらずの平坦口調で意味の分からないことを言う。誰もいないから昨日
私が延々と飾りつけなんかできたのだ。
「いえ、昨日私が入ったのが最後で」
 間違いない。生体認証なのだ。誰かが勝手に入れるはずなんてない。
「だろうな。もう一度開けてみるか」
 手をかざし、生体認証を済ませ、扉が開いて
「よう、千島さん」
「ってなんで橘准尉がいるんですかっ」
 部屋に飛び込む。今だけは前進を口にして突っ込みたい。
 そう、そこには昨日私が飾りつけたままの装飾があり、机の上にはぬいぐる
みが並び、椅子の上にはいつの間にか儀仗服からパジャマに着替えた橘准尉。
「だって、普通に扉が開いたからな」
 嘘つけ。この完璧としか言いようのない生体認証をどうやってこじ開けたの
だ。
「出てってください。ここは千島大尉の執務室です。どこのデータをいじった
んです」
「いや、俺は何もしてないぜ」
「……この期に及んで」
 思わず詰め寄りかけ
「野上、別に構わん。こいつと私は知り合いだ。さて」
 一呼吸置き、大尉が部屋の中に入る。
「久しぶりだな、橘。随分勝手をやっているらしいが、まだ首が繋がっていた
のか」
「ああ、久しぶりだな。プレゼントしてやった下着はまだ身につけているか」
 え、下着をプレゼントする関係なのか。
「確かめてみるか、力ずくで」
「じゃんけんなら受けて立つけどな」
「グーでいくぞ?」
 新感覚バイオレンスホラーラブコメが展開される。もはやついていくことを
放棄してアホみたいに眺めることに徹する。
「さて、積もる話もあるが、明日の夜など空いているか」
「ああ、空けとくぜ。千島さん。じゃあな」
 橘准尉が椅子から立ち上がり、片手を挙げて部屋を出て行った。再び引き締
まった空気が流れる。
「……なんだったんでしょうか、大尉」
「気にするな野上。あれは高校の同級生だ。昔から変な奴だったがそれに磨き
がかかっただけだ。それで、一つ聞いてよいか」
 大尉の顔からさっきまでの笑顔が消え、部屋の中を見渡す。大尉の瞳に飾り
つけたフリフリが映る。
「はい、なんなりと」
 今更変えようのない事実には素直に対応する。
「これは……一体なんだ」
 大尉の目が部屋のある一点に固定され、平坦な口調が低いものに代わった。
 と。
 大尉の顔が赤い。
 あるいはそれは私が作り上げた幻想なのか、実はもう昇天してしまった私が
最後に望んだ光景なのか。そう、それほどにありえない風景。
 大尉が机の上に置いたクマのぬいぐるみを両手に抱え、顔を突き合わせて顔
を赤くしているのだ。
 北方方面隊第一師団、やたらとレースで飾られた中隊長室、その真ん中。最
強を示す礼装を決めた大尉がぬいぐるみとご対面。
 現実よりも自分の正気を疑い、頬をつねってみる。
「……痛い」
「……だろうな、野上。これは現実だ」
 相変わらず両手にぬいぐるみを抱え、私の方向を向かずにそう告げる。
「あ、あの、申し訳」
「いや、謝ることなど何もないのだが、一つだけ聞かせてくれ」
「……どのようなことでしょう」
「では聞くが……なぜ私はこの動物をかたどったものから目を離すことができ
ないのだ」
 ……はい?
「新しいトラップか」
 …………はい?
「私の足を止めさせるなんて、上出来だが」
 ………………はい?
「話が見えてこないのですが、大尉、つまり」
「だからこの物体について説明しろ、野上。お前が整えてくれたものなのだろ
う。新しい武器か」
 つまり、大尉はぬいぐるみのかわいさについて私に説明を求めている、と。
しかもなぜか兵器と勘違いしているらしい。
「は、一般的にぬいぐるみというものは可愛らしいものと相場が決まっており
ます」
 アホの子みたいな回答になってしまった。
「つまり、それが仕様なのだな」
 ……アホの子みたいな返事が返ってくる。
「はい、それが仕様です」
 考えに考え抜いて、答え返した。
 何かが根本的に違うような気もするが、あまりの異常事態に頭も働かないの
で頷いておいた。
「なるほど、ぬいぐるみか。使いどころのわからない武器だな。世の中は謎に
満ちている」
 ……はい?
「いえ、ぬいぐるみは武器ではありません。ただの玩具でして、その」
 なんでぬいぐるみ一つでこんなに意味の分からない解説をしなければならな
いのか。
「……では、この玩具はどのようにして遊ぶのだ」
「う、た、例えばその、話しかけてもいいですし、そうやって手にとって触れ
るのも遊びの一つであるかと。小学生くらいの女子がそのような」
 大尉がぬいぐるみと会話する様を想像しようとして、やめておいた。あまり
にも似合うというか、似合わないというか、どっちであっても笑えてしまう。
「つまりこれに動きを封じられた私は非常に子供っぽい、と」
「い、いえ。私は別に大尉が子供っぽいなんてことは」
 もうなんと言葉を返していいのかですらわからない。
「野上。今更返せなどと言われても手放すつもりはないぞ」
 ……
「はい?」


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